2019-12-20
坊主丸儲けの真実と葬式仏教の現実!そして日本人の宗教観
坊主丸儲けなる言葉がありますが、あれは本当なのでしょうか?現代社会にあって悪戦苦闘する僧侶の理想と現実を今回は紐解いてみたいと思います。
最近は無宗教という形で僧侶を呼ばず葬儀をする方も増えてきました。果たして僧侶を呼んだ方が良いのか?呼ばなくても良いものなのか?僧侶が直面する現実を見ていく中で、少しでも判断材料になれば幸いです。
日本人の宗教観
良く揶揄される話として、日本人は子供が産まれれば、神社にお宮参りに行き、結婚式はキリスト教の教会で!初詣は神社にお参り、葬儀はお寺の僧侶に依頼する不思議な国民性を持っている等という話があります。
この現象に対し、印象的で、しかも不可解に思った文献を見た事があり、その一節をかいつまんで紹介させて頂ければと思います。
日本は古来「やおろづのかみ」に対する信仰が厚く、山や川、海などに大自然に対する畏敬の念と、その大自然の中でいかに調和を保つかが重要であるという思想がベースにある様です。
6世紀に仏教が伝来した際も、衝突するのではなく神仏習合という形で仏教と上手く溶け合って共存を図り、今日まで残っているのです。
ここまでは良いのですが、ここから先が問題です。「この様に日本人の土台には宗教に非常に寛容で、色々な宗教を融合して共存共栄を図る事が出来る素地があるのです。キリスト教やイスラム教の様な一神教崇拝ではなく、すべてを融和させる深い寛容性を持っているのです」という内容の文献でありました。
非常に上手くまとまった文献であった為、なるほどねー!?と一旦は納得しそうになったのですが、一片の違和感を感じざる負えませんでした。本当にそうなのか?という疑問がふつふつと沸かざる負えなかったのです。
蓮が思う日本人の宗教観
大自然への畏敬の念は私にもあります。小さな頃から海や川や木々に触れる度に癒され、その存在に大いなる物を皆さんも感じた事は少なからずあるのではないでしょうか!?
しかしそういった大いなる物への畏敬の念と宗教に対する寛容は違うと考えております。
「長い物には巻かれろ」「よらば大樹の陰」という言葉が意味する様に、日本人には個という概念が諸外国に比べて弱く思います。宗教に対する寛容性ではなく、周りに合わせる・流行や大きな潮流に流される傾向性の為せる業の何物でもない様に感じます。
特にそんな考えに根差し、葬儀をする際は僧侶に来て頂き読経して貰うものだ!?確信はないが、皆そうしている!という考えでするのであれば、やらない方がマシとさえ思えます。お坊さんに読経して貰わないと故人が浮かばれない!そんな事を言っている人は、高いお布施を払い、大切な時間を消費して行われる茶番劇を買っている様にしか見えません。そこに信仰心がある様にはとても見えないからです。
無宗教葬を嘆く僧侶
ある僧侶が通夜の説法の際にこんな事を言っておりました。
「最近は葬儀と言っても故人様を物を処理をする様に、終えてしまう。故人を弔う読経もなく簡単に葬儀を済ませるこの風潮の中で、生きる事の大切さを教える事なで到底出来ない!皆様はその様な事が無い様故人様をしっかり弔ってあげて下さい」
またまた、違和感を感じずには負えませんでした。
まず、通夜・葬儀という場所で最近の皆さんの宗教離れ、葬儀の簡素化を嘆く事自体が場違いである事。
実際に嘆くのであれば、それ相応の場所で自分が必死になって自身が背負う宗派・宗義を掛けて改善を試みる活動をしているのか甚だ疑問である?
場違いな場所で、自分の不満をもっともらしく嘆く僧侶が、どこまで本気になって仏道を極めているか疑わしい!?
それ以上の物を感じる事は出来ませんでした。
檀家制度と葬式仏教
坊主丸儲けという言葉の本意は、坊主は元手が掛からないよ!在庫も店も要らずで収入がそのまま儲けになるという意味があり坊主になったら金が儲かるという意味ではありません。
高級車で乗り付けてくる僧侶を何人か見た事がありますが、そういったお寺は檀家が多く、裕福なお寺であり、ごく一部のお寺だけです。大多数の僧侶・寺はお寺の維持、自身の生活に悪戦苦闘しているのが現実では無いでしょうか。
そもそも檀家制度は江戸時代に宗教統制政策の一環として作られた、寺請制度に端を発しており、半強制的に市民は決められた寺の檀家となり、経済的な支援をする事を義務化されたという背景があります。
参詣や、年忌・命日法要の施行などを檀家の義務とし、葬儀に関しても檀那である寺によって取り仕切られる事なったのです。今日における彼岸の墓参りや盆の法事は、檀家制度によって確立したとの事でもあります。
檀家に墓を建てる事を義務化したのもこの頃からが発端の様です。 ※Wikipedia参照
寺請制度は、1871年に氏子調に引き継がれて廃止されたが、檀家制度は依然存在している。もっともこれは、寺墓を持つためにそのまま寺と檀家が繋がっているだけというケースが多い。
家人の葬儀や先祖の年忌法要といった儀礼でしか寺と檀家は接点を持たない、いわゆる葬式仏教である。しかし、それも経済成長に伴った農村から都市への人口移動などで、農村部は人が減り、廃寺となるケースが目立っている。
また、葬儀業者がその一切を手配してしまうという例も多く、ますます寺檀関係は希薄化している。
※Wikipedia抜粋
生き残りをかける僧侶の現実
檀家制度の衰退より、収入源が減る一方の僧侶が今一番注力している事はなんでしょう?営業だと思います。葬儀をする際に呼んで貰う為にはどうしたら良いか?競合他寺を出し抜いて自分の寺を保つ為に日々必死になっているのが現実です。
一時派遣のお坊さんというシステムが社会的に取り上げられ、宗教界から批判を浴びるといった事がありましたが、小さなお葬式・いい葬儀・イオン葬などが手掛ける紹介寺などは派遣と紙一重、寺の僧侶が収入を得る為に、そういった葬儀集客サービス会社に登録をして葬儀での仕事をいかに取れるか等しのぎを削っているのです。
宗教者が一同に会して、葬儀での集客方法などの勉強会を定期開催しているとも聞いております。
涙ぐましい企業ならぬ、寺努力で従業員一同ならぬ僧侶一同、寺の存続をかけて戦っているのです。
葬儀を行う方々へ
極論を申すと、僧侶が現在の葬儀の在り方を嘆くのも愚であれば、何も分からず僧侶を呼んで読経をして貰う葬儀も愚と当サイトは考えております。
本当に宗教葬をされるのであれば、ご実家で信仰されている宗教がどういった宗義に基づいた物なのか?最低限の事は知って於くべきであると考えます。
そもそも菩提寺といってもただ単に墓があるというだけではないのか?菩提寺の住職が怒るからという理由なら、その墓ごと無理にでも引っ越ししてしまった方が後々はその家の為になるのでは!?
葬儀とはこの様な物である!という固定概念は宗教者の都合に合わせ作られた形跡が多分にあるという事を考慮に入れて下さい。だからこそ葬式仏教などと揶揄されるのです。しっかりご自身があり方を考える事が重要だと考えております。
まとめ
宗教批判をしている訳ではありません。しかし、長い物には巻かれろ方式で葬儀をする事は愚であると主張させて頂きたい。
皆さんが賢明になり、しっかりした眼をを養う事で、世の中の拝金主義・堕落した僧侶の廃絶と淘汰がされると願い今回のトピックを終了させて頂きます。
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